脱構築への意思

 '01年9・11のテロは、西欧近代の到達した資本主義の繁栄 の象徴的建築物である貿易センタービルの崩壊をもたらした。その廃墟の光景には、ある種の既視感があった。

 '95年に神戸震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件を経験していたからであろうか。それともこの既視感は、テロ行為それ自体がメディアのバーチャルな空間の中に回収されてしまう結果、スペクタクル映画のワンシーンの記憶が蘇るからであろうか。

  オウムと9・11テロの二つの事件を結ぶ糸を辿るならば、近代とそれがもたらす抑圧の問題である。グローバリズムとIT革命の世界における一人勝ちと圧倒的多数の敗者。制度や法律は、すべて勝者の側のものであり、敗者は顧みられない。

 しかるにテロリスト内部の情報回路は、オウムの指揮系統を見る限り、勝者の論理と同根であるか、むしろその運用においてはそれ以上に徹底して理不尽なものであったろう。言い換えるならば、モードにおいては同じであるという問題である。

 近代へのアンチテーゼとしてのポストモダンという思想においても、同じことが言えはしなかったであろうか。反近代でありながら実は近代と同根であるという矛盾---モダニズムのデザインを自明のこととした上でそれに装飾を施すことでしかなかったのではないか。

 テロリズムによる近代の廃墟の上にウルトラ近代の構造物を建てるのか、あるいは近代そのものからの脱構築であるのか・・・。ポストモダンという近代の踊り場から、脱構築のデザインを西欧近代の源流たるイタリアの工房の自己革新に求め全国の皆様に弊社ウェブサイトにおいて御紹介してまいりたいと思います。

2005年10月25日

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